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色について

会員コラム 文 : リアルスタイル仙台/現代美術家 後藤寿之 2010年1月

私が日本橋の画廊で初めての個展をおこなったのが1982年でした。福生の米軍ハウスを解体した際に出た廃材200本ほどを加工し、画廊の壁面に一定の法則で固定し、部分的に青の染料で染めた作品でした。青という色は自然界には抽象的なかたちでしか存在しない色で、例えば海や空といった無色透明なものにしか無い(まれに花などにはあるが相対的に少ない)特殊な色という位置づけでした。

幾何的な抽象形態を訴求しつつも色の問題は大きなテーマで、イリュージョンとしての絵画性と物質の狭間で揺れていた時期でもありました。日本橋の画廊でのグループ展での発表作がそれで、壁面に依存した絵画性を持たせつつも立体による3次元性と視座の移動による空間性がテーマとなりました。多分に実験の要素が濃い作品となっています。

その後、数回の個展を経て、銀座のコバヤシ画廊で発表した作品は黒のアクリル絵具で染めた大きな木の板を組み合わせたものに変化しました。素材の色(木肌)を出すことで視覚的に抒情的になることを避けるために選んだ色で、はっきり言ってアクリルのビニル的な質感は嫌いでした。色彩というより皮膜という感じが強く、剥けばすっぽりと剥げるような弱々しい喰いつきは満足できるものではありませんでした。
もともと油彩から平面絵画を経て立体へと変化してきた私の作品にとって色は重要なファクターではありましたが、三次元の素材を使うことにより塗るという行為や所為が付帯的なものに、つまり素材の持つ強さや魅力に従属するような矛盾を常に抱えており、着色という行為自体作為的な、作品の修飾のような感じがしており、その頃は色を使いこなすことができなくなっていました。
日本人、特に東北人には色を使いこなすことができないという呪縛があります。冬になると落葉し積雪のためモノクロームになる山々を幼い頃から見て育つ環境では、彩度、明度の高い色を使うことができないというもので、東北出身の作家で色を操る作家は非常に少ないのも事実です。生まれ育った環境が大きく作用することはこれに限らずあることで、例えば湿度の高い日本では、水墨画のように距離感をかすみの度合いで測っていることが多いのですが、空気が乾燥した大陸では、空気中の湿度が非常に少なく、遠方でもはっきりと見えるため、かすみで距離を測ることはできません。遠近法で強引に距離を見せなくてはならなくなるわけです。

1984年の神田での発表作品は木に染料を何度も染み込ませ部分的に色を感じる茶褐色の作品となり、1985年に神奈川県民ホールギャラリーで発表した作品から、黒を基調とした色調に変化していきました。しかし素材は杉材とアクリル絵具という脆弱なもので、仮設性の強い作品ですが、壁面に依存しない自立した空間性を訴求しだした最初の作品です。

1992年に銀座・京二画廊企画展で発表した作品から、素材となる木を建築用の角材に変えました。それを50本程度組み合わせ大きな構造物を作り、立体の周囲を周回させ、記憶による空間の派生をテーマとした作品へと変化していきました。形をはっきりと認識させるため、同時に素材の表面で視座が留まることを避けるため、素材が何であるかわからなくなるような表現が求められました。デコレーションとしての着色ではなく、皮膜のような弱さを持たない色を希求し、到達したのが黒鉛でした。黒鉛に少量の金属紛を加えて、下地を作った角材の上から面相の刷毛で塗っては、サンダーで磨く行為を延々と繰り返し、まるで黒鉄のような不思議な表面になりました。仮設性は薄まり、立体としての強さと、強靭な表面の塗りによって空間全体が緊張感をもつようになりました。

1993年に目黒美術館で発表した作品は複雑な形態と視線を組み合せる空間発生装置としての抽象立体作品となりました。材を細くして繊細な空間を具現化することを狙いましたが、華奢で目的は達成されなかったように思います。

山形美術館に収蔵されている作品も、同じ手法で表面は作られていますが、黒鉛に銅を加えているため、赤みがかった黒色で、二つの作品で一つの空間を表現しています。

天童美術館収蔵の作品はアルミニウムを加えているため青白っぽい黒色となっています。 この作品は1995年に吉祥寺のギャラリーαエムの企画展で発表したものです。トラス形状の角材120本を組み合わせた大作です。制作には半年以上かかりました。

2001年に青山のギャラリーイデアで発表した作品は全長11m高さ2.6mの大作となり、制作期間は1年、展示のための組み立てに3日を要する大掛かりな作品となりました。顔料や染料ではない、素材で色を表現するのが私の表現となりました。

純粋美術は、抽象により超えることの出来ない高い壁に行き着いてしまい、かつての流行を形を変えて登場させるスパイラルに陥っているように思います。具体的にはカラーフィールドペインティングやミニマルアートによって、極限までの空間表現がなされてしまいこれを超えるものは作られていないのです。昨今流行している商業主義的なアートも、1950年代のポップアートの焼き直しでしかありません。別の付加価値を持たせているだけで、中身は一緒かそれ以下です。正統的な現代美術の新しい地平を切り開く作家の出現が望まれて久しいのですが、手探りの状況は21世紀になっても続いています。

私はデコレーションではなく、作品として色彩を駆使できる作家に対する強い羨望があります。本当の作品には宗教や哲学が込められています。安易に色を使えないのが私の現状です。

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リアルスタイル仙台/現代美術家 後藤寿之

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